ふえざわ書房

鑑賞した作品の感想とか絵とか

シン・ウルトラマン初見感想〜ウルトラマンへのラブレターを読みあげる私達〜

はじめに

『シン・ウルトラマン』を鑑賞するに至った経緯を説明する。私は昨年11月末に『ゲッターロボ』シリーズのOVA『真(チェンジ!!)ゲッターロボ 世界最後の日』(以下チェンゲ)を観て、主人公・號の見返りを求めぬ献身の姿勢が好きになったのだ。(顔の良さもあるが……

彼を理解するのは劇中だけでは難しいこともある。なぜなら彼は寡黙であり、自分で話すより他のキャラクターがその気持ちを代弁することが多いからである。とはいえ、私は號の気持ちを咀嚼し理解することにひたすら努めてたら半年が経っていたし、彼以外のキャラクターにも愛着が湧いた。(そして気がつけばゲッターロボシリーズにのめり込んでいた話はまた今度)20年余り生きてきて初めて、自分が「見返りを求めず、ただ人類を愛し、振り向くことなく立ち向かう、クールながら熱い心を秘めた主人公」が好きであると知ったわけである。

そんな中、フォロワーの方から勧められたのが『シン・ウルトラマン』である。ゲッターロボの後にゲッターロボのフォロワー的作品の『トップをねらえ!』を観て庵野秀明氏の作品の面白さは知っていたので、勉強のつもりで『シン・ウルトラマン』を観るに至ったのである。

リアルすぎて生々しいから、という理由で実写作品に苦手意識を持っていた私は、特撮物も食わず嫌いしていたために「ウルトラマンが人間から変身して怪獣と戦う」という雑めな知識しか持ち合わせてなかった。ある意味貴重な人材かもしれない。まあ何はともあれ、私は何年も前からの歴戦のフォロワー・うりくらげ氏と共に鑑賞する運びとなった。(彼女曰く、『シン・ウルトラマン』の鑑賞はこれで4周になるらしい)

前置きが長くなってしまったが、ここからは本編映像のシーンに細かめに言及していく。ネタバレになるので、この先は未見の方は読まないことを推奨する。

シン・ウルトラQ

冒頭でお馴染みのマティスEBフォントで人類と禍威獣の戦いの歴史が綴られる。このわざとらしい庵野味!うりくらげ氏は鑑賞後に「あれは『ウルトラQ』のオマージュシーンなんだよ!」と大ハシャギだった。彼女はウルトラQ大好きオタクなのだ。さながら『シン・ウルトラQ』を見せられ、いきなり世界観にのめり込む私がいた。

作品の説得力

私は超技術を持つ世界観の生活描写が好きなので、禍威獣と人間の描写に説得力があるのが面白く映った。また、今作品が令和の世に出されたものであるためかきちんと人類のもつ技術も現代に合わせられている。スマホSNSで一瞬で広まってしまう神永や浅見の表現は生々しさを感じる。一度広まってしまった情報を隠すことは難しいし、世界中がウルトラマンの力を知ったなら彼を狙うのは当然の摂理である。

また、禍威獣がどうして現れるか?なぜ他星人は人間を狙うか?など、きっちりと納得のいく設定を用意しているのが素晴らしい。人がのめり込めるような設定を鑑賞者に伝えるのは、存外難しい。口でくどく説明するのも、勢いで誤魔化すのも手段のうちだろう。しかし、本作は丁寧かつくどくない説明がなされているからこそスッと腹に入り理解できるのだ。禍威獣が地球に放置された生物兵器であること、人間が兵器として転用できる生命体であるということ、その他諸々、きちんとした理由づけがされていて面白い。

ウルトラマンのデザイン

『シン・ウルトラマン』初戦でのウルトラマンは銀色である。私ははじめ、ウルトラQがモノクロ作品であったことや、オリジナルのウルトラマンがモノクロテレビ主流時代の作品であったことのオマージュなのではないか?と思っていた。神永との一体化後はおなじみな紅のラインが入ってくるわけだが、うりくらげ氏のツイッターのタイムラインで見た考察では、「血が通った人間と一つになった」「人の心をインストールした」から、血潮の色なのだという解釈があり、興味深い視点だなと思った。

神永新二とウルトラマンの献身の姿勢とその美しさ

子供を庇い死亡した神永の自己犠牲の精神に興味を持ち、神永と一体化し人間社会に溶け込んでいくウルトラマンだが、彼が人間を守るのはなぜか。命を賭けてまで人間を守るメリットなど外星人にメリットはないに等しい。外星人には人間を利用する者もいるし、人間が兵器に転用できるのを知った者もいる。そのうえウルトラマン自身、人間が自分を利用しようとしているのも理解している。それなのに、彼は矮小な人間を守るのはなぜなのか。理屈では語らない。ちっぽけで矮小で、それでいて生きることを諦めない、社会を持つ、群れとして生きる「人間という生き物」を守りたいという彼の願いが、祈りが、彼の戦う動機である。人間を愛したから、ただそれだけの理由で、彼は命を投げ捨てでも戦う。人間を愛し、どんな状況にも心が折れることはない。迷わない姿が美しくて、好きだ。

神永新二=ウルトラマンのパーソナリティ

特に神永新二=ウルトラマンのパーソナリティが出ていて好きなのが、ブランコに乗ったメフィラスとの対話のシーンだ。

庵野秀明演出で私が好きなのが、小道具による生活感や心情の描写である。『トップをねらえ!』でも登場したブランコ。ブランコは揺れる遊具であるので、「心が揺れている」ことのメタファーに使える道具なのだ。『トップをねらえ!』での描写では、ウラシマ効果により同級生でありながら、少女の姿のまま戦っていたノリコと大人になってしまったキミコは、隣り合うブランコで語り合う。ふたりの心理が揺れ動くさまを描いている。

『シン・ウルトラマン』劇中でのブランコは、メフィラスとの対話に使われている。ウルトラマンを煽るようにノリノリでブランコを揺らすメフィラス。さながらウルトラマンの心を揺らすためであるようにさえ見える。しかし、神永は劇中で一度もブランコを揺らそうとしなかった。つまり、彼の心は劇中一切揺らぐことはないのである。

危機を傍観しない人類=禍特対とバディ・浅見

危機の前線に立たされる禍特対。現場のリアルな空気が伝わってくる。キャラも一人として嫌な奴がいない。一人一人に愛着が湧く。彼らの生活、日常が描写されているからこそ、彼らのパーソナリティも短いながらきっちりと表現されている。また、前線で戦うのがウルトラマンであるが、彼らは神頼みだけをしているわけではない。特に終盤のゼットンとの戦いに向けて、一人一人ができることをやる姿勢なのが美しい。

それから、浅見がバディとして監禁された神永を助けるシーンが好きだ。たくましい女が大好きな私に刺さる場面だった。神永の俗っぽい返事も相まって、浅見のパーソナリティが表現されている良い場面だった。

わかっていても好きになる憎い演出

いわゆるぐんぐんカットの出し方がもうわかっている人間のやり口であることだけでなく、浅見の巨大化、ゾーフィとゼットンの出し方等…他作品を知っていたらニヤリとできるところなんだな〜というのは、ミリしらで初見の私でも解る。さてはスタッフ全員ウルトラマン好きすぎてたまらない人たちだな?と思わせる。

「知ってるけど、新しい」

先人をただなぞるだけでは、新しい創作は生まれない。そのまますぎず、それでも良さは残しておかねばならない。新しいなにかを加えるならば、好かれるものを作る努力をせねばならない。原作ありきの創作を作る時、原作ならではの要素と、自分ならではの味を出すことを忘れてはならない。だから『シン・ウルトラマン』は「わざとらしい庵野味!」だが、「庵野秀明の中のあこがれのウルトラマン像」を見せつけてくるのである。それも、知っていても新鮮に感じるような、そんな味付けで。

ラーメン屋に行ってラーメンを食べたい。しかし、出されるものは他の店と全く同じであってはならない。かといって、注文と違うものを出されても意味はない。その店に行く動機は、味がある程度想像できた上で、それを上回る新しい体験を手に入れたいからである。私たちは「わかっている情報」と「好意的な裏切り」を期待し、それらを咀嚼したくて、飲み込みたくて、身体で味わいたいから、金を払って娯楽を手にするのをやめられない、そういう生き物なのだ。

神永とリピアの別離=神の時代の終わり

人間は神に依存して暮らしていた。しかしそれでは人類は停滞してしまう。だから、人間は人間の力だけで生きなければならなかった。神を殺したことで、神への依存を脱却し、時代を築き上げたのだ。

劇中でウルトラマンは神のように扱われていた。彼は力の化身にして、願望器……いわば聖杯でもある。しかし、それへの依存は破滅を意味する。

ウルトラマンを敗北させたゼットンはいわば神を殺す神器だ。十字架であり、ロンギヌスの槍(ここでは聖書的な意味である)なのだ。神を縛り、神を殺し、その神話を破壊する。ゼットンとの戦いで初めて敗れるウルトラマンを見て、彼が万能の神ではないことを人類は知る。

ただ思い返せば、人類特に禍特対はウルトラマンの力を借りるものの、完全に彼に依存しているわけではない。ウルトラマン自身も、その力を借りることをよしとする。その在り方は依存ではなく、共存、同居、相互理解だ。個々に矮小な力しかなくても、助け合い、力を振り絞りやれることをやる。ある種の神殺しの為の神ゼットンを、人間・神永新二の心を理解したウルトラマンが、人類の提示した方法を用いて葬り去るのである。

人間は進化を止めない。停滞する生き物ではない。なぜなら、本当に強い人類は絶対の力に依存しないからである。

最終盤、ゼットンとの戦いで異次元に飛ばされたウルトラマン=リピア。彼は自分の命を捨ててでも、神永新二を助けた。長命の光の星の住民にとって、人間の生命など瞬きよりも短いものなのだろう。その人間のために、悠久にも近しい命を捨てる=死を受け入れるリピア。たった一人のちっぽけな人間にそこまで肩入れするなんてことはあり得ない。あり得ないのに、リピアはやってのけるのだ。命を投げることが呼吸と同じように、当たり前のことだと認める。自我の喪失を恐れはしないのだ。神永新二の信じる世界を、彼の住まう世界を、禍特対の仲間たちを愛したから、リピアはその命を捨てる。神の時代の終焉を、自らの命を断つことで人間たちに告げるのである。これからは君たちの力で生きていくんだ、立ち向かうんだと鼓舞するかのようだ。限りなく前向きな別離なのだ。人類の未来を作るのは神ではない。人間自身なのだ。自らの意思で進化することが、人間ならば、自分が愛した種族ならばできると信じて、リピアは自らの死”=“神の時代の終わりを受け入れるのだ。たいへんに美しい。

おわりに

誰にでも理解できるエンタメ作品を作るのはたいへんに難しいことである。私はメディア形態を重要視する人間である。例えばゲームならば、「プレイヤーが操作することによって新たな体験が得られる」ものであってほしい。映画ならば、音と大きな画面による効果的な演出があってほしいものである。

当たり前のことのようだが、この作品に関わっているスタッフは映画づくりが巧いのである。映画という、没入感を促す媒体を作るのが巧い。何も考えず見るのもよし、考えっぱなしで見るのも楽しい。そんな、「一粒で百度美味しい映画」を作るのは難しい。映画に限った話ではないが、「娯楽をつくる」こと自体、一握りの人間に許された娯楽である。誰かを喜ばせる、そういう娯楽だ。見る人をひたすらに驚かせてやろうという気概を、この映画からはヒシヒシと感じた。評価されるエンタメ作品は、実は一握りの人間たちの叡智の集合であり、かけがえのないものなのだ。

ファンの強い想いがエンタメ作品に昇華されている『シン・ウルトラマン』だが、初見の人間にも解るぐらいの丁寧な仕事ぶりだった。純粋に作品やキャラに対する愛着とかそういうのは抜きにして、娯楽として凄いものを私は見せられたのだな、と思う。その他のスタッフや演者の方々の力も詰まっている。本当に素晴らしいエンタメ作品だった。

 

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おまけ〜限界オタク仕草暴走編〜

さて、今まで真面目な長文でタップリ語ったのだが、それはそれとして私は限界オタクなので、存分に狂わせてほしい。

 

リピアさぁ!!!!!!!!!!!!(台パン)

人間のこと、めっちゃ大好きじゃん!!!!!!!!!!!!!!!!

そしてそんなリピアのことがみんな大好きじゃん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

お前さ……神永の死体からドッグタグ取って自分につけるシーン何を思ってそんなことしたんだよ?????????もうそれは執着じゃん。人間であることへの願望、人間社会への愛、それはもう執着なんよ。魂に刻まれた罪なのよ。お前は堕天使だよ。神から人になったんだな、あのシーンで。あーあ……あー…………リピアさぁ…………!!

しかもまたタチの悪いことに神的な寿命を持つ、圧倒的なパゥワーも持ってるのにそれを捨ててまで戦うかフツー?????????そんなに人間のことが好きになったのかウルトラマン?????????

せやろな……好きは時に神も人も狂わせるもんな……いつだって「好き」の気持ちは時代を作り、壊してきたもんな……あー……ダメ、好き。リピア、お前が好き。神永新二マン、私の好きな主人公です。あと斎藤工さんの顔がいい。

 

浅見さんとは恋愛的な感じじゃないのがまたたまらない。いや、浅見さんからはそういう目で見られてた節はあったかもしれないけど、バディなんだよな、終始。言葉が少なくとも信じ合える、そんな仲になれる人というのはなかなか存在しないから。あー……すこ。

 

でさぁ!!自己犠牲を見て感動したからってお前も自己犠牲すな!!!!!!!!!!!!!!!!!ねえどうしてそんなことすんの?神永が帰ってきてもその心の臓の中にみんなが好きになったリピアが居ないんだよ!!!!!!!ど、どうしてだよお!!!!!!庵野秀明!!!!!!!!!!!!

そして流れ始める「M八七」で涙腺が崩壊した。米津!!!!!!!!!!!!!!!

……悔しい。ひたすらに私は彼らに敗北した。痺れるほどに好きになっちゃった。強火の愛に心と身体を焼かれちゃったよ。人は好きを突き詰めると、幻覚を現実に変えやがる。やられた。あーあ、庵野秀明やってくれたな……お前マジでそういうところだよ。ありがとう……(どこから目線?)

「好き!!」の業火を煮詰めると、エンタメになる……。また一つ賢くなれた気がするわ。

あー……そのうちもう一回見に行きたいな……咀嚼……したいな……も〜っと細かいシーン……見たいな……

 

とにかく長らく語ってきましたが、シン・ウルトラマン、私の好きな言葉です。おわり!